石巻競馬関連資料集
 └石巻市史

「石巻の競馬」(『石巻市史』第四巻)

大正二年鰐山(現在の配水池西面)の傾斜地において草競馬が行われ、近村から多数農馬や挽馬の出場があつたことがある。次いで大正四年には、蛇田村民有志の発起にかかる蛇田競馬協会が結成され、村長遠藤章平を会長に挙げて村内沖部落の耕地に馬場を整備して、毎年春秋定期競馬大会を催した。大正九年石巻の競馬愛好同志が県産馬組合の助成を得て、水押の私有地を借りうけここに馬場を設置、地方競馬として本格的に開催したところ東北各地より多数の逸足が参加し毎回非常な好況を呈した。しかし同馬場も数年を出でずして廃止のままとなつたが、終戦後全国的競馬熱の勃興に刺戟されて、昭和二十三年石巻競馬施設株式会社が設立され地方競馬開催の計画を立て、門脇雲雀野海岸の官有地役二万一千坪を借り受け、ここに円周千米の馬場その他を整備の上、県と交渉して第一回県営競馬会を誘致して開催した。しかるに経営成績思わしからず二十五年限り中止した。これに対し市議員中の競馬会社幹部が市営に移して運営を続行すべきであると市当局に迫り、議会もまたこれを支持したので二十六年度秋から市営のもとに春秋二回ずつ開催、時には出場馬も観客も多く、従つて馬券の売り上げ好況を収めたが其の後次第に赤字を重ねて総額二百万円を越えそれに馬券のような賭博は社会風教に悪影響を与える故、市営反対の声がたかまつたので昭和三十六年廃止した。

「蛇田の競馬」(『石巻市史』第五巻)

 蛇田において個人有の田圃の一部と村有地の谷地を買収して競馬場を開始したのは大正四年である。石巻競馬会という名称であつたが県の馬産奨励の掛声に応じて近隣の馬を集めて開始された。草競馬ながら時人の圧倒的な声援を得春秋二期の開催には老若男女弁当持参で参集し競馬をたのしんだ。蛇田の名物男黒須新三郎が会長で臨時に花競馬を加えて大盛况であつた。
 開設当時は二万人と称された入場者があり、小人五銭、大人十銭の入場料をとり、勝馬投票券が五十銭で賞金は県の補助があるため徴収せず、農具や家庭用品などの賞品を出した。
 入場料や投票券の収入で重い銭箱を棒に通して好い気嫌で役員一同がひきあげたということである。
 村からの買収金も一年で支払つたという景気であつた。毎年この競馬は地方の名物として賑わつたが、昭和四年仙石線がこの附近を通過したゝめやがて水押に移つてその土地は共栄組合(競馬に関係ある人々)によつて開墾されたが、現在は美田となつている。