石巻競馬関連資料集
 └牡鹿郡案内誌

「二三、大街道」(『牡鹿郡案内誌』第二編)

山下中學院前より西数町にして大街道に出づ、仙台への通路なり此地元牡鹿原と称したる荒蕪の地なりしを、三河屋吉兵衛(同地井上氏の祖)の開墾に濫觴し、明治初年、旧藩士細谷直英等の移住し來れるものの授産場となり、荊棘を排し來耜を加へ廣茫たる良圃と化し、梨其他の果樹及諸種の苗木を産す、大街道の名天下に普し。沿道の松並木翠緑滴らんとする所、直路殆里許にして青葉社あり。社の北隣は古への牡鹿沼のありし所。今は蛇田村の石巻競馬場として、其名遠近に聞ゆ。

「一、蛇田村(戸数六百餘、人口三千九百餘)」(『牡鹿郡案内誌』第四編)

石巻の西北部に位置を占む、石巻驛に下車して穀町を右に直行すれば、二三町にして蛇田神社の鳥居前に出づ、是れ即ち村名の起る所なるが、中學院前の山下町より蛇田村の部にして、運河の鐵橋、石井閘門、岩井製材所等皆此地にありて、有名なる石巻競馬場、桃生牡鹿両郡内唯一の獣畜屠殺場、大和屋の火薬庫等も亦村内に點在す。而して古刹
禪昌寺(臨済宗)は田道将軍の古墳と共に、山下に在りて石巻町に隣接し、東雲寺(天台宗)は村の中央高屋敷にありて、蛇田尋常高等小學校、蛇田村役場、巡査駐在所等は皆其附近にあり。

「三、石巻競馬場(蛇田村の中央前方にあり)」(『牡鹿郡案内誌』第四編)

大正四年の春蛇田村競馬組合の設立にかゝり石巻競馬場と名つく。古への牡鹿沼のありし所にして、周回半哩、其設備の完全なること本縣第一位の競馬場として常に宮城縣産馬組合の用途に充て春秋両度の大會を開く。毎會馬政局より金七百圓の補助金を交付せらる。場長は遠藤章平氏なるが、黒須、大内等の諸氏は顧問として斡旋す。